幼いころ、禁じられた術を使って故郷を滅亡させるに至ったという過去が、朱華の心に鎖を巻きつけている。十年経って、そのちからが完全に戻ってきたからといって、すぐに使いこなせるとは到底思えない。
「閉じた蓋を外すのが怖いのね。強すぎるちからは自分自身を破滅へ導くこともあるでしょう。けれど茜桜はあたしと出雲の子だから貴女にありったけの加護を注ぎ込んだのよ。使いこなせないかも、なんて怯える暇があるのなら、使いこなせるよう努力しなさい」
ぐずる子どもを叱りつけるように、帰蝶は朱華に強く伝える。
「っていうか、使いこなせ」 くだけた言葉遣いが、かつての朱華の母親の姿にぴたりと重なる。わたしの娘なんだからそれくらいできるわよ、とからから笑っていた太陽のような女性。『天』の加護を持っていたことから雲桜の神殿へ派遣された姫巫女だった女性。花神さまと結婚することだって叶ったのに、そこで出逢ったしがない神官と恋に落ち、朱華は産まれたのだ。いつも朱華に神謡(ユーカラ)を謳っていた母。誰よりも土地神に近い存在だった母。
自分もまた、その系譜に連なる運命を辿る岐路に立ったのだ。朱華は自分がどの道を進むべきなのか、帰蝶の言葉を反芻しながら、決定を下す。「……うん」
それは、残留思念として漂うばかりの茜桜と帰蝶に向けた、最初で最後の誓い。
「――あたし、もう、逃げない」
雲桜が滅亡した真実から、未晩に書き換えられた記憶から、至高神が預かっているという茜桜の加護から。 流されるように穏やかに生きるのはもうやめると決めた。「それでこそ、フレ・ニソルが誇る紅雲の娘!」
帰蝶は朱華の瞳をじっとのぞきこんで、うたうように言の葉を紡ぐ。
「たとえすべてを思いだせたとしても。許してあげて。自分のことも――彼らのことも」 朱華は黙り込んだまま、帰蝶が告げるひとことひとことを耳の奥へ、心* * * 「そなたが此度の我が裏緋寒となる者か」 誰何を問う朱華の声に反応するように、夜澄の瞳の色が黄金色へ煌めく。 飴色の湯船に浮かぶ桜の花びらが、重力に逆行するように雫とともに天空へと浮かび上がってゆく。「お初にお目にかかります、竜頭さま」 朱華は興味深そうに視線を注ぐ竜頭に、ぺこりを頭をさげる。 「まだ子どもではないか」 竜頭は湯帷子ごしにのぞく朱華の身体の線をじろりと見つめ、残念そうに溜め息をつく。「……あの?」 「わしはもっと豊満な肉体を持つ女性がすきじゃ。いくら神術に優れていようが、これではわしの子を孕むのは無理じゃろう」 失礼なことをぽんぽんと呟きながら竜頭は朱華の反応を眺める。一気に顔が赤く染まるのを楽しそうに見つめたのち、竜頭はゆっくりと朱華の前へ近づいていく。「な」 「あと数年もすれば誰もが羨む美貌の持ち主になるかの? 凛とした風情の|里桜《りお》とはまた異なる、雅な美人になりそうだな」 にこにこと笑みを浮かべるさまは、この身体の主が夜澄でないことを暗に示している。「だが、わしの好みではない」 「そう言いながらじりじり近寄ってくるのはどうしてですかっ!」 手を伸ばせば触れられる距離に、竜頭は立っている。このまま抱き寄せられたり押し倒されたりしたら朱華は抵抗できない。湖のなかで本体が眠っているというのに精神体だけ夜澄に乗り移った状態で、竜頭はいったい何をしようとしているのか。「決まっておる。そなたの記憶を元に戻す」 「……記憶のことも、知って」 「そりゃああやつの体内を借りておるからのう。これの思考が手に取るようにわかるわい」 ふぉっふぉっふぉという夜澄では絶対に言わない笑い声をあげて、竜頭は朱華の手を取る。てのひらに触れられた途端、朱華のなかで、ぞわり、と何かが蠢く。 『――やめろ』 それと同時に朱華の耳元に別の声が響く。
* * * パァン、という耳を劈くような破裂音が身体の内部から生じた。 未晩が猛烈な吐き気から口を開くと、ごぽり、と湧き出た泉のように血の塊が外へと流れ落ちていく。真っ赤な血は衣を染めた後、吸い取り切れなかった液体がポタポタと床に垂れ流された。その姿を見て、同朋はからからと嗤う。 「呪詛が、破られたっ……!」 里桜から逆さ斎のちからを奪おうと未晩が施した呪詛が、どうやら返されてしまったようだ。口から血を流しつづける未晩を見つめていた男は、つまらなそうに呟く。 「――代理神の半神である表緋寒を痛めつけようとした天罰だよ」 月の影のなりそこないの逆さ斎と、逆井一族に認められた表緋寒では神々からの信頼の差も歴然としている。未晩が裡に飼っていた闇鬼のちからを取り込み幽鬼となったことを、傍観者である至高神が見逃すわけがない。たとえ至高神が未晩を裏緋寒の番人に選んだとしても、優先順位を考えれば表緋寒の、竜糸の土地神に代わる存在に選ばれた少女のちからがそのまま土地へ還ってしまうのを退けるために動くのは仕方のないことである。 男の説明を耳に入れる余裕もないのだろう、未晩は血の塊を吐き出しながら顔を真っ青にしている。常人ならば放っておけば出血多量で死に至るだろうが幽鬼と契約を交わした彼のことだ、呪詛を返されただけならば簡単に死ぬこともなかろう。せいぜいしばらくのあいだ使い物にならない程度だ。 「とはいえ、ここで未晩が使えないとなると、都合が悪いんだよなぁ」 彼の目的はあくまで裏緋寒の乙女を自分の手元へ取り戻すこと。そのためなら神々を滅ぼすことも厭わないと幽鬼である自分と契約を交わし、自らも幽鬼となった。もともと人を襲う鬼をその身に封じ、心の裡に闇鬼を飼い慣らしていた未晩は幽鬼と融合する際に拒否反応を起こすこともなかったため、呪術の能力と身体機能が上昇したくらいにしか思っていなかったのだろう。その分、自分が放った呪詛を返されれば、その身に食らう術式の量が増えるのも仕方のないことである。「……だけど、彼女を求める気持ちは
だというのに、至高神はいま、なんと言った? 「――そんな、ことが」 「裏緋寒の番人がそなたに施した忌術は完全なものになりつつある。一晩でこうも逆さ斎の色が抜けるとは妾も思わなかったがのう……いまのそなたは神皇帝に選ばれた代理神の半神でも逆井一族に連なる逆さ斎でもない、神と対話をすることすら憚られるただの紅雲の娘じゃ。それは逆に、『雲』のちからを発揮するにはもってこいな状況になる。どうかの? いっそのこと、表緋寒から裏緋寒に、そなたが成り代わり、莫迦息子の嫁になっては」 朱華に返すはずの花神のちからを、至高神は里桜に渡せるのだと暗に告げる。神々の誓約を、自ら破棄しても構わぬと豪語する。どこまでも気ままで、傲慢で、自分勝手な、この世界に遊ぶ、哀れな女神。 もし、ここで里桜が頷いたら、朱華はどうなるのだろう。竜頭の花嫁として神殿に迎えられたはずの彼女が、手にするはずのちからを、里桜が、奪い取って、裏緋寒の資格を手に入れたら…… 地に従う逆さ斎となった里桜には許されざる願望だった、土地神の花嫁。その願いを、至高神は叶える手段を持っている。だが。 「……何が目的なのです?」 腑に落ちない。取引を持ちかけている彼女の方に、何の得があるのだろう。「目的とな? そんなもの存在せぬ。ただ、その方が面白そうだと思ったからじゃ」 「――お断りします」 その言葉が、決め手になった。この神は、竜糸の将来がどうなっても別に構わないのだ。竜頭が死んだらそれまでのことと見切りをつけて、また別の集落に悪戯を仕向ける。 神々と幽鬼の戦いに人間を巻きこみながら、高みで見物することしか許されない、唯一の、孤高の神。かの国を興した始祖神の姐神(あねがみ)であろうが、竜頭の代理神として竜糸の集落を守護してきた里桜からすれば、強いちからを持ちながらひとびとのために尽くせない至高神など、必要ない。 それに、里桜は幽鬼を滅することのできる逆さ斎のちからを、雲桜が滅亡したことを端に自ら手に入れたのだ。そのちからを失った状態で、雲桜の、死んだ土地神が別の少女のために遺したちからを自分
「大樹さまはどちらに!」 少女は必至な形相の里桜を楽しそうに一瞥し、つまらなそうに応える。「あやつはもはや代理神になることは叶わぬぞ」 「……あたくしが、逆さ斎のちからを奪われてしまったからでしょうか」 完全に術がかけられたわけではなさそうだが、里桜は自分の烏羽色の髪を忌々しげに指で掬って至高神に確認する。「いや。里桜のそれは大した問題ではない。逆さ斎でなくなれば紅雲の娘に戻るだけ、竜頭が意識を覚醒したいまなら妾からすればどっちでもよい。問題は大樹じゃ。すべてのはじまりはあやつが、『天』の加護を手放したから……ま、そのおかげで妾は眠りつづけておった莫迦息子に再会できるわけだがの」 「え」 ――大樹さまが至高神に与えられた『天』の加護を自ら手放した? だが、至高神はさらりと話題を変えてしまう。終わってしまったことを今更口にするのも莫迦らしいと言いたげに。「そうそう。雲桜の裏緋寒と呼ばれる朱華(あけはな)という女子(おなご)……里桜、おぬしとも因縁があるのだったな」 しかも裏緋寒の番人に愛され、記憶を操られているという。おまけにその月の影のなりそこないの逆さ斎は彼女を自分だけのものにするために自ら幽鬼となったとか……「さすがに騒がしくて竜頭も目が覚めるだろうよ。だがの、あやつがそう簡単に花嫁を娶るかねぇ……雲桜を滅びへ導いた娘を、好き好んで、のぉ?」 他人事のように、いや、他人事だからか、少女の瞳は愉快そうにきらきらと輝いている。その色は、蒼穹を彷彿させる、真っ青な、空の天色(あまいろ)。「里桜よ」 ふたたび、名を縛りつけられ、里桜は至高神が降臨している少女の前に、跪かされる。けして死ぬことのない最強の、最凶の神は、代理神という役割を担っていた半神の逆さ斎に、取引をもちかける。 「裏緋寒のためにと遺した花王の、強大な加護のちからを、おぬしは欲しいと思わないかえ?」 雲桜の花神、茜桜が自分の神嫁にしようと産まれた頃から莫大な加護を注ぎ込んだのが、カイムの
「……なによ、これ」 里桜は水鏡にうつる自分の姿に唖然とする。 月の影のなりそこない、逆さ斎でありながら幽鬼と手を組んだ未晩に忌術を施されたのは昨日の夜。あれから騒がしいと夜澄の身体を依代にして竜頭が現れ、神殿内の邪気を払ってくれてはいたが、呪詛は里桜の身体に刻まれたままになっていた。「こんなに早いなんて……」 蒼白な表情で紫に近い唇を震わせ、里桜は両腕で己自身をきつく抱きしめる。 水鏡の向こうに映るのは幼いころの自分……烏羽色の髪と瞳の、『雲』の姿。 朝衣の上を波打っている黒々とした髪。それを見つめる同じ虹彩の双眸。 未晩は逆さ斎のちからを土地に還元すると言っていたが、だとしても早すぎる。 「――土地に仕える逆さ斎が命ず……っく!」 逆さ斎としてのちからは既に奪われてしまったのだろうか。里桜は土地のちからを呼び寄せ、手の甲に刻まれた呪詛を破ろうとしたが、言葉を唱えはじめた途端に生じた激痛に、声を失ってしまう。 「……詠唱できない?」 そんな莫迦な。 里桜は何度か試みたが、完全に唱えることは一度もできず、逆に喉を痛めてしまう。「表緋寒さま、お目覚めでしょうか?」 「――来ないで!」 侍女見習いの少女の声が扉を叩く音とともに耳に届く。咳き込んでいた里桜は入って来てはいけないと叫ぶが、三つ編み姿の少女は無慈悲にも堂々と扉を開けはなっていた。 「表緋寒さま。恐がらなくても大丈夫ですよ」 銀の髪が一晩で烏羽色へ変化した姿に気づいた少女は、怯えることもなく里桜へ近づき、俯いていた顔を強引に持ち上げる。頤に手をかけられ、口づけすらされそうな近くで視線を交わす。「……お前は」 里桜が侍女見習いの少女の名を口にし、抗うように術を放とうとするが、少女は「無駄ですよ」とくすくす微笑むだけで、怯えた里桜の瞳を満足そうにのぞきこむ。「幽鬼ではなさそうね」
「もうあがるのか」 「だって、夜澄が入ってるなんて知らなかったもん」 「俺もそう思う」 「何よそれ」 ぷぅと頬を膨らますと、すまなそうに夜澄が弁解をはじめる。「さっきまで俺のなかに竜頭がいた。だから瞳の色が黄金色になっていたんだ」 「竜神さまが……?」 たしかに、朱華が滑って転んだときに発した彼の声は、彼のものではなかった気がする。「起きたの?」 「完全に覚醒したわけではなさそうだが、大樹さまが姿を消しているいま、依代になれるのは俺しかいないからな……不覚だった」 いつの間に覚醒し、自分の身体に入り込んだのだろう。夜澄は悔しそうにひとりごちる。 いったんは湯船から立ち上がった朱華だったが、夜澄が興味深いはなしをはじめたため、ふたたび湯船に腰を落とし、耳を傾ける。「よりしろ……土地神が乗り移る媒介ってこと?」 おとなしく自分の傍に腰を下ろした朱華に気づき困惑する夜澄を気にすることなく、彼女は質問を繰り返す。「じゃあ、夜澄はやっぱり、それだけのちからを持っているんだね」 土地神をその身に移すことができるのは、代理神のような特別な術者や、土地神の御遣いと呼ばれる精霊に限られている。眠りにつく以前の竜神を知っていると口にしていたことを思い出し、朱華は黙り込んでいる夜澄に確認するように、言葉を紡ぐ。「あたし、見たの。九重と逢ったとき。逢って、拒絶に近い反応をされたとき。夜澄……あなたが|雷土(いかづち)を起こしたのを」 桜の花びらが浮かぶ飴色の湯のなかで頬を淡く染める朱華が、糾弾する。 「ねえ。あなたは」 目の前にいる年齢不詳の青年が、わからなくなる。 竜糸の代理神に仕えるという桜月夜の守人。 けれど彼は、代理神よりも竜頭に重きをおき、彼の花嫁になるであろう朱華のことを第一に考えている。竜神が過去の幽鬼との戦いで傷つき、深い眠りにつく以前から、彼は竜神に仕えているのだ。百年以上もはるか、昔から。 朱華は彼を竜神さまの
* * * ――なぜ、こんなことになっているのだろう? 夜澄は自分が抱きとめた少女を見て、硬直する。どうやら、竜頭が勝手に身体を使って湯に浸かっていたらしい。そこへ、身を清めるために彼女、朱華が入ってきた…… 「夜澄?」 朱華もまた、何が起こったのか理解できていない表情で、自分を見つめている。なぜそんなに無防備なんだ。侍女と一緒じゃないのか。こんなときに幽鬼がやってきたらどうするんだ。白い湯帷子が湯に濡れて透けているぞ。襲ってもいいのか。「お前……状況を考えろ」 「あ、やっぱり夜澄だ。さっきまで瞳の色が黄金色だったから違うひとかと思った」 朱華の言葉に、夜澄は怒りを萎ませる。黄金色の瞳、それは竜頭の瞳の色。やはりさっきまで自分の身体には竜頭が入っていたようだ。いつの間に身体に入ったのだろう。 だが、竜頭は朱華と会話をつづける気がなかったらしい。いきなり姿を消してすべてを夜澄に任せたのだ。たぶん、彼女が自分の神嫁になる少女だということにも気づいていないに違いない。「……それより夜澄、いい加減放してよ」 さすがに湯帷子一枚を素肌の上にまとっただけの姿で抱き合うのは、どうかと思う。 朱華がまともに意見したのに気づき、夜澄は慌てて朱華から手を放す。ふわり、花の甘い香りが周囲を包んでいく。朱華は夜澄からすこし離れたところで、ふぅと腰を下ろす。 夜澄は気が気でない表情で彼女を見つめる。湯帷子越しだから気を許しているのだろうが、彼女の淡い桜色の乳首がほんのり透けていて、前夜のことを思い出してしまったからだ。 小ぶりでありながら弾力のある乳房に敏感な乳首。野外の暗闇では確認できなかった彼女の色めいた姿を想い、これではいけないと首を横に振る。「すまない。ちょっと考えごとをしてた」 とろみのある飴色の湯に、桜の花びらが閉じ込められている。昨日の薔薇の香りも悪くはなかったが、今日の桜の芳香の方が、朱華には似合っていると、夜澄は心の中で呟く。「……顔、赤いけど。いつから入ってるの?」
硝子窓に反射する朝陽を浴びて、朱華は起きる。「あれ? ここ……」 自分と未晩が暮らしていた診療所ではない。しかも、身にまとっている生成り色の朝衣もふだん着ているものより上質で、光沢感がある。なぜ自分がこのような場所で寝ていたのか首を傾げたところで、小気味のよい扉を叩く音が響いた。 「朱華さま、起きましたか?」 その声で、朱華は我に却る。思い出した。ここは神殿。自分は竜神さまの花嫁となるためここに連れられてきたのだ。自分が花神の強大な加護を封じられている裏緋寒の乙女だから…… 「あ、はいっ! どうぞ」 慌てて応えると、安心したように雨鷺が入ってきた。紺鼠色の小袖を着て髪を高く結いあげている雨鷺は同じ装束の少女を連れている。十代半ばくらいの、あどけなさが残る三つ編みの少女も雨鷺と同じ小袖姿であるのを見ると、どうやら神殿に仕える侍女見習いのようだ。「裏緋寒さまの本日のお召し物になります」 朱華と目があったことに気づいた少女は顔を真っ赤にしながらたどたどしくも要件を伝えていく。朱華はありがとうと頷き、彼女から衣装を受け取ろうとしたが、雨鷺に奪い取られてしまった。「まずは、湯殿にて身をお清めするのが先になります」 そのまま、促されるように朱華は朝衣のまま、寝台を下りる。開いた扉の前で雨鷺が 「Chiko yayattasa(感謝します)、shirar(岩となりしものよ)」と呟くと、霧のように細かい水滴が空中で弾けて消えた。「いまの……」 「ルヤンペアッテの竜頭さまより賜れたわたしの加護術です。一晩程度でしたら幽鬼の侵入を阻む小結界を編み出せます」 にこやかに解説する雨鷺に、朱華はそうだったのかと納得する。『雨』の民のなかには水を自在に操ることができるほどの強い加護を持つ人間もいるという、雨鷺は神殿の巫女のように万能なちからを持つわけではないが、特化したちからがあるから神殿内で重要な役割を持つ人間を世話することができるのだろう。 朱華が室から出ると、そこには青い外套をまとった
「だけど。そのちからを、あたしは使いこなすことができるの?」 幼いころ、禁じられた術を使って故郷を滅亡させるに至ったという過去が、朱華の心に鎖を巻きつけている。十年経って、そのちからが完全に戻ってきたからといって、すぐに使いこなせるとは到底思えない。「閉じた蓋を外すのが怖いのね。強すぎるちからは自分自身を破滅へ導くこともあるでしょう。けれど茜桜はあたしと出雲の子だから貴女にありったけの加護を注ぎ込んだのよ。使いこなせないかも、なんて怯える暇があるのなら、使いこなせるよう努力しなさい」 ぐずる子どもを叱りつけるように、帰蝶は朱華に強く伝える。 「っていうか、使いこなせ」 くだけた言葉遣いが、かつての朱華の母親の姿にぴたりと重なる。わたしの娘なんだからそれくらいできるわよ、とからから笑っていた太陽のような女性。『天』の加護を持っていたことから雲桜の神殿へ派遣された姫巫女だった女性。花神さまと結婚することだって叶ったのに、そこで出逢ったしがない神官と恋に落ち、朱華は産まれたのだ。 いつも朱華に神謡(ユーカラ)を謳っていた母。誰よりも土地神に近い存在だった母。 自分もまた、その系譜に連なる運命を辿る岐路に立ったのだ。朱華は自分がどの道を進むべきなのか、帰蝶の言葉を反芻しながら、決定を下す。「……うん」 それは、残留思念として漂うばかりの茜桜と帰蝶に向けた、最初で最後の誓い。「――あたし、もう、逃げない」 雲桜が滅亡した真実から、未晩に書き換えられた記憶から、至高神が預かっているという茜桜の加護から。 流されるように穏やかに生きるのはもうやめると決めた。「それでこそ、フレ・ニソルが誇る紅雲の娘!」 帰蝶は朱華の瞳をじっとのぞきこんで、うたうように言の葉を紡ぐ。 「たとえすべてを思いだせたとしても。許してあげて。自分のことも――彼らのことも」 朱華は黙り込んだまま、帰蝶が告げるひとことひとことを耳の奥へ、心